憂い next ver.
新・元自衛官の憂い
ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
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11262118 | [PR] |
02110700 | 震災から11ヶ月、337日になりました。 |
マスメディアは数字が取れず、被災地の状況は置き去りにされ、民主党政府は官僚と結託して消費税率アップに躍起になっています。
宮城県石巻市。大津波による被災自治体最大の浸水面積73平方キロ、住宅地・市街地面積の46%が浸水しました。
石巻市では、児童108人のうち68人が亡くなり、6人が行方不明になった市立大川小学校の悲劇は、後世に語り継いでいかなければならないものです。「天災」という人間の力の及ばない自然の前に、人間は為す術もありませんが、「天災」だけで片付けられるものではありません。
市教委や地元住民の証言によると、地震が発生した際、学校では「帰りの会」の最中で一部の児童たちが下校していました。
地震の発生で、在校していた児童は机の下に身を隠し、下校していた児童も学校に戻ってきました。
停電のため放送機器が使用できず、教務主任が校庭に避難するように指示して回りました。15時頃には、児童が校庭に集合し点呼をとり始めました。
あの大きな揺れから15分足らずで、点呼までできたのは問題がないと思われます。
しかし、ここから教職員の逡巡が始まります。
このまま校庭で待機するのか、津波から逃げるためにどこに逃げるのか、結論が出せないまま時間だけが無情に過ぎていきました。
この時、校舎西脇にある裏山に逃げようとの意見も出たそうですが、「倒木」「雪」「余震による崩落」などで危険だとの意見に、さらに逡巡が続くことになりました。
一部の父兄が学校に迎えに来て、児童は約80人になっており、15時25分頃ようやく校庭から北上川にかかる新北上大橋脇の堤防道路の方向に一列になって避難を始めました。
点呼から25分、教職員の逡巡が重大な影響を及ぼすことになりました。
多くの児童の犠牲だけでなく、被災後の学校と市の対応にも問題がありました。
学校と市から説明があったのは被災後1ヶ月が経ってから、謝罪はなく、避難経緯や防災マニュアルの詳細説明に遺族は納得できなかったそうです。
6月4日、遺族からの要望書で再度説明会が開かれました。
この時、学校に防災マニュアルは存在していましたが、二次避難は想定しておらず、そのために教職員が逡巡してしまったこと。海岸線から約4キロ離れた大川小学校に津波が到達することを想定していなかったことが明らかにされました。
学校、市教委の震災対処マニュアルに不備はあったと思いますが、残念なのは地域自体にも津波に関する警戒感が薄かったのではないかとも感じます。
そこに「想定外」の津波が襲い掛かり、大きな悲劇を生んでしまった。
想定外は使うべき言葉ではないとこれまで何度もお話してきましたが、想定外+危機管理能力の欠如が、この悲劇に根源にあるのではないでしょうか。
検証が行われないことは、市・県と父兄の間に大きな溝を作り、地元でも溝ができていると聞いています。
想定外、マニュアル、震災後は「サバイバル」などと言われますが、肝心なことは〝生き延びる〟ことなのです。技術ではありません。〝生き延びる〟覚悟なのです。
宮城県石巻市。大津波による被災自治体最大の浸水面積73平方キロ、住宅地・市街地面積の46%が浸水しました。
石巻市では、児童108人のうち68人が亡くなり、6人が行方不明になった市立大川小学校の悲劇は、後世に語り継いでいかなければならないものです。「天災」という人間の力の及ばない自然の前に、人間は為す術もありませんが、「天災」だけで片付けられるものではありません。
市教委や地元住民の証言によると、地震が発生した際、学校では「帰りの会」の最中で一部の児童たちが下校していました。
地震の発生で、在校していた児童は机の下に身を隠し、下校していた児童も学校に戻ってきました。
停電のため放送機器が使用できず、教務主任が校庭に避難するように指示して回りました。15時頃には、児童が校庭に集合し点呼をとり始めました。
あの大きな揺れから15分足らずで、点呼までできたのは問題がないと思われます。
しかし、ここから教職員の逡巡が始まります。
このまま校庭で待機するのか、津波から逃げるためにどこに逃げるのか、結論が出せないまま時間だけが無情に過ぎていきました。
この時、校舎西脇にある裏山に逃げようとの意見も出たそうですが、「倒木」「雪」「余震による崩落」などで危険だとの意見に、さらに逡巡が続くことになりました。
一部の父兄が学校に迎えに来て、児童は約80人になっており、15時25分頃ようやく校庭から北上川にかかる新北上大橋脇の堤防道路の方向に一列になって避難を始めました。
点呼から25分、教職員の逡巡が重大な影響を及ぼすことになりました。
多くの児童の犠牲だけでなく、被災後の学校と市の対応にも問題がありました。
学校と市から説明があったのは被災後1ヶ月が経ってから、謝罪はなく、避難経緯や防災マニュアルの詳細説明に遺族は納得できなかったそうです。
6月4日、遺族からの要望書で再度説明会が開かれました。
この時、学校に防災マニュアルは存在していましたが、二次避難は想定しておらず、そのために教職員が逡巡してしまったこと。海岸線から約4キロ離れた大川小学校に津波が到達することを想定していなかったことが明らかにされました。
学校、市教委の震災対処マニュアルに不備はあったと思いますが、残念なのは地域自体にも津波に関する警戒感が薄かったのではないかとも感じます。
そこに「想定外」の津波が襲い掛かり、大きな悲劇を生んでしまった。
想定外は使うべき言葉ではないとこれまで何度もお話してきましたが、想定外+危機管理能力の欠如が、この悲劇に根源にあるのではないでしょうか。
検証が行われないことは、市・県と父兄の間に大きな溝を作り、地元でも溝ができていると聞いています。
想定外、マニュアル、震災後は「サバイバル」などと言われますが、肝心なことは〝生き延びる〟ことなのです。技術ではありません。〝生き延びる〟覚悟なのです。
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