忍者ブログ

憂い next ver.

新・元自衛官の憂い  ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

05090328 [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

  • :05/09/03:28

01021200 年賀状に思う

お正月といえば年賀状がつき物ですが、この年賀状の歴史を調べると、郵便制度が確立した明治時代中期からのようです。これは、奈良時代頃からあった年始回りが、遠方の人に書状で挨拶していたものと結びついたとされています。



自衛隊で郵便というと思い出すのは、友人から「自衛隊では郵便は検閲されるんだろ?」と真顔で聞かれたのが思い出されます。そんなことあるはずないのですが、マジメに聞かれて笑ってしまいました。でも、私が在職時代は極左暴力集団が爆破や火炎瓶による襲撃事件が相次ぎ、部外からの荷物には敏感になってたときもありました。しかし、検閲まではありませんでした。

郵便と軍が絡むと浮かんでくるのは「軍事郵便」ですが、近代日本初の対外戦争となった日清戦争のときでした。

前線の兵士たちの士気を鼓舞するために、大本営が考えた福利事業の一つでした。戦地から兵士が内地の家族に当てた郵便は無料でしたが、兵は1ヶ月1通、将校では3通の制限がありました。内地の家族からは、国内郵便料金で送ることができ、このシステムが後の日本の郵便制度の手本とされました。

日露戦争では動員された人員は約100万人。海軍はまだ小所帯で4万人でしたが、艦艇は寄港した際に郵便物を受領したため、軍事郵便の恩恵はなかったようです。

日露戦争では、開戦間もない時期に軍事郵便制度の勅令が出され、このシステムが手直しされながら第二次大戦終結まで存続しました。

「軍事郵便」とは…戦地もしくは戦地に準ずる場所から陸海軍を問わず軍人・軍属の出す郵便物で、特別の取り扱いを受けるものです。先述しました通り戦地からは無料で、部隊に随行した従軍記者も軍の許可を受け、郵便物は軍事郵便扱いとなりました。軍事郵便として送り得るのは、封書と葉書だけでなく、日清/日露戦争初期には制約がありましたが、後に4㎏以内の小包を送ることができるようになりました。雑誌なども送れたそうです。

郵便物を扱ったのは陸軍では野戦郵便局、海軍では艦船郵便所でした。野戦郵便局は旅団以上の部隊単位が外地に出征する際には、その部隊の展開地からやや後方に臨時に設置されました。応急施設であったため、天幕施設で、郵便局は軍の組織の一部ではありましたが、局員は内地の郵便局から臨時の軍属として派遣されました。

1個師団の出征では、局(出張所)が4~5ヶ所で、人員も20名前後が必要で、内地でもこれだけの人手を確保しておらず、派遣の際に臨時に採用される配達夫が多かったそうです。日露戦争時は、輸送船の出入港となった門司や広島の郵便局が、臨時の局員養成所のようなこともしました。

軍事郵便の配達は、戦地では各部隊が自分たちで行い、野戦郵便局は連隊以上の部隊別に仕分けし、発送郵便物を地域/県別に仕分けをしました、1日で2~3tの郵便物を仕分けしたそうで、内地の郵便局の比ではない忙しさだったそうです。

驚かされるのは、野戦郵便局は「貯金」も取り扱っていたことです。俸給を内地の家族が受け取るシステムもあったそうです。戦地からの送金も可能だったそうでした。今でも遺骨収集が続けられていますが、その際に印鑑が見つかり身元確認の手がかりになりますが、この印鑑は野戦郵便局や俸給受領に使われていたそうです。

近年、年賀状が廃れつつあるそうです。「年賀状は出さないからいらない」と言ってはばからない知人がいます。言わなければいいのに、「俺はアメリカ人だから…」と言ってしまい、欧米の人たちは、クリスマスカードを交換して、日本の年賀状と同じことをしているのを知らないようで私はこれを聞くたびにしらけてしまいます。

日本人の悪い癖は、新しいものを受け入れますが、古いものを残すことをしようとはしません。でも、軍事郵便だけは個人的にも元自衛官としても復活だけはして欲しくありません。

拍手[0回]

PR

+コメントの投稿+

+NAME+
+TITLE+
+FONT+
+MAIL+
+URL+
+COMMENT+
+PASS+
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

+TRACK BACK+

+TRACKBACK URL+