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新・元自衛官の憂い  ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
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  • :04/27/05:54

01031200 ナチのUFO? №1


年末年始のテレビ界は特番のすし詰め状態ですが、番組名は忘れましたがUFO研究家(?)の矢追さんが出ていたようです。他の番組では、UFO肯定派がかの田母神カッカッカに空自にUFO研究機関があるのでは?とアホなことを尋ねていましたが、そんなインタビューなど断ればいいのに、大衆迎合のお好きなカッカッカはコメントされていました。





矢追さんなどは、ナチがUFOを造っていたとする説を唱えていますが、これはヒトラー生存説を元にしています。

1945(昭和20)年4月16日、ソ連軍はベルリン占領を目的とする作戦を発動しました。4月30日、ヒトラーは総統官邸地下壕で愛犬を毒殺し、自らは拳銃で自殺、前日に結婚式を挙げたエヴァ・ブラウンは服毒自殺しました。側近は遺体が連合軍に渡るのを恐れガソリンをかけ焼却し、ヒトラーの死は側近たちの証言でしか証明できなくなりました。焼却された遺体はソ連軍が回収し、検死されましたが、ソ連軍だけの検死で、西側諸国ではヒトラーの死に疑問が持たれるようになりました。

このような疑問に、ナチ幹部などが中南米に亡命しており、ヒトラーの生存説がまことしやかに囁かれるようになり、噂は中南米だけでなく、同盟国で戦争を継続していた「日本に亡命」したする説、中南米から南極に渡り南極でナチ帝国を再建した、これに尾ひれが付いてUFOを造ったなどの説が飛び出しました。

矢追さんを肯定することは到底できませんが、ナチが奇妙な形状の航空機を作り出したのは事実です。

これは、敗色濃厚となった戦局を一気に挽回しようと新兵器の投入を夢見たためです。日本軍も同じで殺人光線まで研究していたのですから、高い工業力を持つドイツが異形の軍用機を飛ばしたとしても不思議はありません。それを、UFOに結びつけるのは、歴史の真実を誤認するものであり、事実を歪めてしまいかねません。

今回はこうしたドイツの軍用機をご紹介します。

新兵器の開発に携わった一人に、アレキサンダー・リピッシュ博士がいます。

リピッシュは1894年にバイエルン王国の首都ミュンヘンで生まれ、1909年にベルリンのテンペルホーフ飛行場で行われた〝ライト〟による「ライトフライヤー」のデモ・フライトを見て航空機に関心を持ちました。しかし、当時は父親の跡を継ぎ美術学校へ進学予定でしたが、第一次大戦の勃発が、リピッシュの人生が変えることになります。

1915年~18年の間、陸軍に従軍し、空中撮影・測量などを行いました。

大戦後はツェッペリン社で働き、無尾翼機に関心を持つようになりました。

第二次大戦前から亜音速(マッハ0.75以下)機には、直線翼よりも後退翼が適していることはわかっていました。しかし、当時のジェット・エンジンは非力で、望んだ速度を出すことはできません。

そのため、機体の軽量化、空気抵抗減少を目的とするいろいろなアイディアが考えられました。

その一つが、水平尾翼の撤去でした。水平尾翼の撤去は、揚力の不足を招き、安定性の低下につながり、実現性は低いものと思われました。アレキサンダー・リピッシュ博士は、違った見方をしていました。

博士は無人の無尾翼グライダー、有人の無尾翼グライダーを製作し、実際の飛行に成功します。自分の技術・理論に自信を深めた博士は、無尾翼機を発展させていきます。そこで行き着いた結論が、翼を三角形にすることでした。三角形にすれば、高速でも安定性・機動性に問題が起きないと考えました。

博士はロケット・エンジン搭載の試験機を作り実験しますが、テスト中の事故で死者を出しました。この事故を受け、1935年ドイツ空軍省は三角翼機の研究を禁止しました。

しかし、博士の禁止を解くことになったのはれ歴史の皮肉でした。

ドイツは1933年にヒトラーが政権を掌握すると、戦争準備を急ぎ、アレキサンダー・リピッシュ博士の三角翼機の研究禁止も解除されました。博士はフィゼラー社で三角翼動力付きグライダーの開発を勧められました。博士はこの誘いに、開発中の三角翼機を拡大改良した高速ロケット機の試作を逆提案しました。空軍省がこれに飛びつき、博士をメッサーシュミット社に迎え、高速ロケット推進機の開発をスタートさせました。

これによって完成されたのがMe163でした。テスト飛行で最大速度1,000km/hを超え、ドイツ空軍は歓喜しました。空軍はメッサーシュミット社に武装などを装備させ実戦に必要な機材を試験機に装備させ量産を命じました。

これがMe163Bでした。1944年の初配備からドイツの敗戦まで約280機が生産され、日本に資料が送られ局地戦闘機「秋水」として開発されました。

Me163Bの戦果は7機だけ。速度が速すぎ照準が難しく、ロケット・エンジンの燃焼時間は3分だけ、燃焼が止まれば滑空して逃げるしかありません。連合国軍は燃焼が終わってから狙い撃ちしました。航続距離が短いため、当然のように敵を探すことができず、燃料の酸化ヒドラジンと過酸化水素は爆発性が高く、爆発事故も多く起き、人体に触れれば生命に関わることこととなり、それ以上の発達はしませんでした。

空軍省はメッサーシュミット社に改良を命じますが、改良を担当するメンバーの中にはリピッシュ博士の姿はありませんでした。博士はメッサーシュミット社上層部と対立し、メッサーシュミット社を辞していました。

博士はウィーンで「ウィーン航空輸送研究所」を立ち上げ、研究に励みました。リピッシュ博士はここで、Me163で実現できなかったことを実現させようとしました。それは、三角翼機の発展と、問題の多いロケット・エンジンからジェット・エンジンを結びつけることでした。

リピッシュ博士は生産からすぐに実戦投入かのうな航空機開発を目指し、空軍省に提案したのが「リピッシュP.13a」でした。

分厚い三角定規を直角につなげたような機体で、主翼付け根に30㎜機関砲を2門、最大速度1,600㎞/h。飛行時間は45分とされました。

しかし、博士は重大な失敗を犯しました。主機に選んだのが実用化されていないラムジェット。

ジェット・エンジンはターボプロップ、ターボジェット、ターボファン、ラムジェットの4種に大別できますが、重量当たりの推力比はラムジェットが一番大きいのですが、機構が簡素にできる反面、機体が一定速度に達しなければエンジンは作動せず、P.13aは離陸用にロケットエンジンを装備することになっていました。

機体の研究開発と平行して、博士はエンジン開発も手がけなければならなかったのです。

空自新輸送機のようにエンジン選定の難しさは、その機の実用化を遅らせることになります。博士は二兎を追い、実物大の試験用機体が完成したのは敗戦と重なりました。

米軍がこの機体を持ち帰り調査しましたが、主翼の厚さが原因で時速1,600㎞は出ないとされましたが、機体はマッハ2.6まで安定していたと伝えられています。

P.13aが実用化されていたら…歴史でIfは禁物だそうですが、後方視界はゼロ、45分という飛行時間で索敵は無理であっても、直線で構成された量産しやすい機体は、ラムジェットも構造が単純で量産向きで、燃料は重油に石炭の粉末を添加したものを使うことにされており、追い詰められたドイツには魅力的な機体であったのは事実でしょう。迎撃戦闘では戦果を挙げられたと思います。

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