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新・元自衛官の憂い  ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
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  • :11/26/06:24

10270800 忘れてはならないこと

震災から時間の経過とともに、被災地のことが少しずつ忘れ去られているような気がします。

発災直後、被災地に入った自衛官たちの状況が詳しく伝えられることはありませんでした。

海保は「海猿」で自衛隊は「岩猿(言わざる)」だと原発に派遣された幹部自衛官が言った言葉ですが、もっと多くの情報を発信すべきと私は考えています。







皆さんは、自衛隊が世界でも類例のない「軍隊」になったことをご存知ですか。

敵を殺傷する軍隊でありながら、救った命のほうが多い軍隊となったのです。

発災から一週間で約二万人の被災者を救いました。

しかし、現実は筆舌に尽くし難いものだったようです。

当然、生存者救出が優先され、瓦礫に横たわる多くの遺体を目にしながら、遺体は後回しにされ回収が待たれました。

初日は高揚した気持ちが、二日目から落ち着きを取り戻すと、被災地のあまりの惨状と生存者が見つからない無力感に、若い隊員は泣きながら作業していたそうです。

原発に入った隊員たちも過酷を極めました。

3月14日に福島第一原発に入った中央特殊武器防護隊は、東京電力の「安全だ」という言葉を信じ作業を始めた途端、3号機が爆発し隊員が負傷しました。

再び原発で復旧作業に当たりますが、防護服は一人一着という状態だったそうです。

警察官や消防士は遺体を目にする場もありますが、自衛官は遺体に接する機会はほとんどなく、いかに今回の災害派遣が過酷であったかご理解いただけるのではないでしょうか。

発災翌日、被災地に入った関西の陸自航空隊のヘリもまた過酷な状況下、救助を粛々と進めていきました。

慣れない場所で、津波により目標物も完全になくなり、迷いながらも指示された原発に近い小学校に取り残された被災者の救出に向かったそうです。

上空には自衛隊のヘリが多く、目標物を捜すのと互いに接触しないように飛行するといった状態で、目的地に到着しても校庭が狭く一機ずつしか降着できず、ヘリは付近を旋回して待機していたそうです。中には原発の真上で待機する機もあり、任務を終え帰投すると、被曝している可能性があるとランウエイに降ろされ、安全が確認されるまで4時間も待機させられたそうです。

捜索では地上15m程度の高度を飛んだそうです。15mだと5階建てのビル程度です。

私は元自衛官として、自衛隊の側のお話をしていますが、救助に向かった隊員たちがこれだけ過酷なのですから、被災者たちの環境はどれほど苛酷であったのか想像できます。

ある団体の募金状況を見ると、少しずつではありますが震災が忘れ去られているように感じます。

皆さん、東日本大震災をどうか忘れないでください。私からのお願いです。

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