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新・元自衛官の憂い  ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
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  • :04/26/20:16

08191519 大平炭鉱病院看護婦集団自決事件

8月15日、終戦記念日に併せ全国戦没者追悼式が行われ、一部の国会議員や偏狭な歴史認識を持った人たちが靖國神社に向かいます。

8月15日正午、昭和天皇による終戦の詔勅がラジオから流れましたが、まだ激戦が繰り返されている地域がありました。

その中で、数々の悲劇が起こりましたが、忘れられている悲劇がありました。






 昭和20年8月17日、南樺太西岸で日ソ国境に近い大平炭鉱病院に勤務する看護婦たち23名が劇薬やカミソリで自決を試み、内6名が命を失うという事件がありました。

 一部には自決が軍による強制や命令があったとする説も存在しますが、それは後世の我々の考えるレベルでの論争であって、現在とは異なる価値観に基づいた教育を受けていただけでなく、当時の樺太ではすでに日本は敗れ、救援に来てくれる望みもなく、生きるか死ぬかという究極の選択を迫られた状況下での選択であったのです。

 樺太では明治38(1905)年に地層と植生が調査され、塔路町周辺では良質の無煙炭が確認され、蝦夷松・椴松がパルプの原料になることが確認され、採炭とパルプ事業が盛んでした。

 8月9日、対日戦に踏み切ったソ連は、11日になり樺太に侵攻してきました。

 16日早朝、ソ連第365海軍歩兵大隊と陸軍第113狙撃(歩兵)旅団第2大隊が、艦砲射撃と海軍機の援護の下、塔路港に上陸してきました。

 塔路の町は焼失、守備隊は壊滅。塔路町長、警察署長らは終戦であることから停戦交渉に向かいました。ソ連軍は武装解除と、すでに避難していた住民の呼び戻しを要求しましたが、町長たちはソ連軍により射殺されます。

 塔路から恵須取に向かっていた民間人は、ソ連軍による無差別な機銃掃射で死傷者が続出します。

 13~14日にかけて約2万の避難民がソ連による無差別攻撃に晒されながら恵須取町にある大平炭鉱に避難してきていました。

 避難民は炭鉱の社宅や寮、学校、炭鉱病院などに身を寄せました。

 17日、ソ連軍は恵須取を攻撃。恵須取・塔路両町に取り残されていた避難民の多くが自決しました。

 炭鉱病院の看護婦たちにも避難命令が出されましたが、重症患者を見捨てて逃げることができずにいました。

 恵須取町には、ロシア革命でシベリアのニコラエフスクで革命派ゲリラ部隊による日本軍・在留邦人が虐殺された尼港事件から生き残った人たちが移り住んでおり、ソ連人の残虐非道さを看護婦たちは聞き及んでいたものと思われます。ソ連兵に何をされるか、彼女たちがどのような目に遭うか想像することは簡単でした。

 ソ連兵が近付いたことに気がつき、婦長は看護婦と相談。ソ連兵といえども重症患者には手は出さないと判断し、投薬を済ませて南に24km離れた恵須取を目指し脱出を図りました。

 しかし、10kmほど進むと南から向かってくるソ連兵と遭遇します。

 南に向かっていた彼女たちは、完全に包囲されたことに気がつきました。

 婦長と二人の副婦長が相談の上、自決を決断したそうです。

 婦長はもう逃げ切れないこと、敵に捕まり悲惨な目に遭うかもしれないこと、婦長として皆を守り親元に帰せないことを詫びたそうです。

 ソ連兵に陵辱されるよりは、死を選ぶという結論に達したのでしょう。

 23名中6名が亡くなりました。

 彼女たちが死を選択したこと、死を選ぶ教育や環境などを否定することはできません。簡単に否定することは、亡くなった看護婦を、生き残った看護婦を否定するのと同じことになります。

 この事件が公になったのは近年になってからことです。生き残った看護婦たちが、この事実を口にすることができなかったからです。

 最後に亡くなった婦長のお父さんの葬儀での言葉をご紹介します。

 「私の娘が死んでくれてよかった。責任者として生きていて欲しくなかった」

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