憂い next ver.
新・元自衛官の憂い
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02022155 | [PR] |
08170800 | 海軍の良識派 百武源吾 |
かつての戦争の責任は陸軍だけでないという私見をお話しました。「陸軍だけではない」というよりも、むしろ海軍の大きな責任があったと私は考えています。
しかし、海軍にも良識派は存在していました。
大正2(1921)年海軍省勤務となり、軍令部参謀兼教育本部第2部員。大正4年から2年間、米国に駐在し米国の国情を詳細に研究。日露戦後、米国を仮想敵国とした帝国海軍の無謀さを悟り、対米協調路線推進を決意します。
帰国後、海軍大学校教官に就きますが、2年間に渡り学生に対米協調の重要性を説きましたが、学生達からは「恐米論者」として反発されました。
対米協調を主張したのは、百武源吾大将です。
百武は、明治15年1月28日、旧佐賀藩の足軽であった百武庭蔵の五男として生まれました。
三男である三郎は、同じ海軍大将で日本海軍唯一の兄弟大将です。六男晴吉は陸軍中将でした。
佐賀中学から東京海軍予備校に転校し、明治32年12月海軍兵学校に入校しました(海兵30期)。主席で海兵を卒業し、同期生の中で唯一「大将」まで昇進しました。
大佐となった百武は、軽巡洋艦「多摩」の艦長となりました。
「多摩」艦長時代、下関に停泊中に運炭船が衝突して沈没する事故が起き、事故の責任を問われることになりました。
軍法会議で「そのほうの生年月日は明治15年1月28日に間違いないか」と問われ、「私は存じませんが、そのように伺っています」と答えました。
百武は、〝生まれたばかりの赤ん坊の私が生年月日を知っているはずがない。だから知らないと言ったのです〟と後に語っており、百武の硬骨漢ぶりをうかがわせるエピソードです。
練習艦隊司令官、佐世保鎮守府長官などを経て、昭和12年4月大将に昇進。
13年4月、軍事参議官(重要軍務につき天皇の諮詢に応じる国家機関)となり、11月に日野虎雄大尉が参議官副官となり行動を共にするようになります。
日米間が緊張を高める中、昭和16年11月4日、天皇希望で陸海軍合同軍事参議官会議が皇居で開かれました。
政府側は東條首相兼陸相、嶋田海相、統帥部からは杉山参謀長と永野軍令部総長、各参議官が出席しました。
この会議で百武一人が開戦に反対し、百武は陸軍に飛行機の準備を質すと、「飛行機は海軍がだいぶ持っているから、陸軍もこれから段々とおしらえていく」と答え、百武は絶句したそうです。
日米の格差を熟知していた百武ですが、百武の正論に対し「腰抜け」と罵倒されることもありました。
海軍内もほとんどが開戦論に支配されていたにもかかわらず、正論を最後まで主張したのは百武ただ一人でした。
百武は大将の定年まで5年を残し、戦時にもかかわらず予備役に編入されました。
先見性に優れ、冷静な分析能力、こうした海軍高級士官を現役の座から追い払うことは、井の中の蛙であった海軍だからこそできたものであり、だからこそ敗戦となったと私は見ています。
しかし、海軍にも良識派は存在していました。
大正2(1921)年海軍省勤務となり、軍令部参謀兼教育本部第2部員。大正4年から2年間、米国に駐在し米国の国情を詳細に研究。日露戦後、米国を仮想敵国とした帝国海軍の無謀さを悟り、対米協調路線推進を決意します。
帰国後、海軍大学校教官に就きますが、2年間に渡り学生に対米協調の重要性を説きましたが、学生達からは「恐米論者」として反発されました。
対米協調を主張したのは、百武源吾大将です。
百武は、明治15年1月28日、旧佐賀藩の足軽であった百武庭蔵の五男として生まれました。
三男である三郎は、同じ海軍大将で日本海軍唯一の兄弟大将です。六男晴吉は陸軍中将でした。
佐賀中学から東京海軍予備校に転校し、明治32年12月海軍兵学校に入校しました(海兵30期)。主席で海兵を卒業し、同期生の中で唯一「大将」まで昇進しました。
大佐となった百武は、軽巡洋艦「多摩」の艦長となりました。
「多摩」艦長時代、下関に停泊中に運炭船が衝突して沈没する事故が起き、事故の責任を問われることになりました。
軍法会議で「そのほうの生年月日は明治15年1月28日に間違いないか」と問われ、「私は存じませんが、そのように伺っています」と答えました。
百武は、〝生まれたばかりの赤ん坊の私が生年月日を知っているはずがない。だから知らないと言ったのです〟と後に語っており、百武の硬骨漢ぶりをうかがわせるエピソードです。
練習艦隊司令官、佐世保鎮守府長官などを経て、昭和12年4月大将に昇進。
13年4月、軍事参議官(重要軍務につき天皇の諮詢に応じる国家機関)となり、11月に日野虎雄大尉が参議官副官となり行動を共にするようになります。
日米間が緊張を高める中、昭和16年11月4日、天皇希望で陸海軍合同軍事参議官会議が皇居で開かれました。
政府側は東條首相兼陸相、嶋田海相、統帥部からは杉山参謀長と永野軍令部総長、各参議官が出席しました。
この会議で百武一人が開戦に反対し、百武は陸軍に飛行機の準備を質すと、「飛行機は海軍がだいぶ持っているから、陸軍もこれから段々とおしらえていく」と答え、百武は絶句したそうです。
日米の格差を熟知していた百武ですが、百武の正論に対し「腰抜け」と罵倒されることもありました。
海軍内もほとんどが開戦論に支配されていたにもかかわらず、正論を最後まで主張したのは百武ただ一人でした。
百武は大将の定年まで5年を残し、戦時にもかかわらず予備役に編入されました。
先見性に優れ、冷静な分析能力、こうした海軍高級士官を現役の座から追い払うことは、井の中の蛙であった海軍だからこそできたものであり、だからこそ敗戦となったと私は見ています。
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