憂い next ver.
新・元自衛官の憂い
ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
|
02121330 | [PR] |
04130700 | 戦場に立つ者への想い |
4月5日現在、自衛隊は人員約106,400名(陸災部隊:約70,000名、海災部隊:約14,300名、空災部隊:21,600名、原子力災派部隊:約500名)、航空機:498機(固定翼:205機、回転翼:293機)、艦船:50隻が活動しています。
震災から一ヶ月、余震と思われる地震も続いています。中には大きな揺れもあります。学者先生は、統一された見解はなく、地震の状況判断も原発同様様々な見解が伝えられています。個人的には、気象庁がいちばん信用できると思っています。
「一ヶ月」を私は強調したのは、「戦闘ストレス反応」について心配しているためです。
戦闘ストレス反応、戦争神経症という言葉をご存知の方がいらっしゃると思いますが、それと同義語です。
戦闘によってもたらされる真理的反応をいいます。これまでの研究では、継続的な戦闘ストレスに晒された部隊の戦闘効率性は一時的に上昇しますが、ある時点を境に低下していくことが証明されています。
この過程は四段階に大別されています。第一期は戦闘参加から約10日間、第二期は戦闘効率が最大となる約20~30日間、第三期は兵士が過敏になり戦闘効率が低下しはじめる約10日間、第四期は終末的戦闘疲労を見せる約10日間とされ、第四期では兵士は完全な無気力状態となり、部隊は効率的に戦闘することが不可能な状態となります。
これを災害派遣されている部隊にあてはめてみてください。派遣部隊は、ちょうど第二期の末期になっているのです。
戦闘ストレス反応と今回の災害派遣は違うと思われる方もいらっしゃると思いますが、これまで断片的にお伝えしてきましたが、彼らの置かれた環境は戦場と同じです。
その犠牲になったのが、旭川駐屯の第2師団第2特科連隊の陸曹長(4月1日付で1階級特別昇任:准陸尉)でした。
曹長は大地震発生の第一陣部隊として3月12日旭川を出発。2日間かけ被災地に入り、3日後の早朝から岩手県内で活動を始めました。昼夜を問わず、本来任務である食糧・物品管理、日中は瓦礫の撤去、捜索などに当たっていました。
第一陣となった部隊は、人命救助が優先され緊急性の高い任務が課され、早朝から日没まで、過酷な環境下での活動を強いられました。
曹長は30日、岩手県滝沢村にある施設を借りた前方戦力回復所で休養していた2日目の朝、起床後、左半身の異常を訴え救急車で盛岡市内の病院に搬送されました。
自衛隊による史上最大の作戦は、十万名ですが、後方支援要員・交代要員も含めると二十万名となるのはそう遠くはないでしょう。士気は高く、被災者の方々からも高い賞賛を得ています。
しかし、現実は「限界」を迎えつつあるのです。
その影響は最前線に立つ陸上自衛官に集中しています。被災地入りした当初、1日一食というという日が続き、鍛えぬいた肉体を徐々に蝕み、疲労は極限を迎えているはずです。戦闘食を口にし、避難民には温かい食事と風呂を提供し、膨大な亡くなれた方、被災者と向き合い野営を続けています。
PTSDの症状が出ているとの報告もあります。
警察や消防と違い、遺体を見たり触れる機会がない隊員にとってどれほど大きな負担があるか想像に難くありません。遺体は大変申し訳ありませんが、通常の状態ではありません。津波に飲み込まれ無数の傷があり、傷から細菌が入り繁殖し、腐敗は凄まじいとしか形容できないと聞いています。
こうした症状は、原発に展開する中央特殊武器防護隊、各師団から派遣されている化学防護隊、空中モニタリングする第1ヘリコプター団でも見られるそうです。
強いストレスは、私たちの理解の枠を明らかに超えたものです。恐怖感、嫌悪感など無数のストレス要因と戦っているのです。
私は早期に、派遣部隊を後方に一時移動させ、部隊を再編する必要が急務だと思います。長期の任務に適応したシフト化し、全ての省庁が担当を分担・明確化し、長期的な復興を目指す時期のはずなのです。
「仕分け」を得意顔でやっていた議員センセイ方の多い民主党が、なぜここで仕分けをしようとしないのか。無能とか無策というレベルのものではありません。民主党の仕打ちは、人間としてその本質を疑われる行為です。
亡くなられた曹長ですが、曹長には三人の息子さんがいらっしゃるそうです。お一人は、第1空挺団で福島原発で任務中。ほかの二人の息子さんも、陸上自衛官で東北の被災地に投入されているそうです。
曹長への処遇は伝えられていませんが、救いは急変を伝えられた自衛隊統合任務部隊司令部は、三人のご子息をそれぞれの任務地から呼び集めヘリなどで病院へ送り届けたそうです。私は異例中の異例のこの統合任務部隊司令官と司令部の英断は賞賛されるべきものだと思います。そして、曹長は「栄誉の殉職」であり、立派に国民の負託にこたえた死であるのは明らかです。ここに、二階級の昇任を求めるとともに、現在の作戦終了後、師団による部隊葬を求めます。
震災から一ヶ月、余震と思われる地震も続いています。中には大きな揺れもあります。学者先生は、統一された見解はなく、地震の状況判断も原発同様様々な見解が伝えられています。個人的には、気象庁がいちばん信用できると思っています。
「一ヶ月」を私は強調したのは、「戦闘ストレス反応」について心配しているためです。
戦闘ストレス反応、戦争神経症という言葉をご存知の方がいらっしゃると思いますが、それと同義語です。
戦闘によってもたらされる真理的反応をいいます。これまでの研究では、継続的な戦闘ストレスに晒された部隊の戦闘効率性は一時的に上昇しますが、ある時点を境に低下していくことが証明されています。
この過程は四段階に大別されています。第一期は戦闘参加から約10日間、第二期は戦闘効率が最大となる約20~30日間、第三期は兵士が過敏になり戦闘効率が低下しはじめる約10日間、第四期は終末的戦闘疲労を見せる約10日間とされ、第四期では兵士は完全な無気力状態となり、部隊は効率的に戦闘することが不可能な状態となります。
これを災害派遣されている部隊にあてはめてみてください。派遣部隊は、ちょうど第二期の末期になっているのです。
戦闘ストレス反応と今回の災害派遣は違うと思われる方もいらっしゃると思いますが、これまで断片的にお伝えしてきましたが、彼らの置かれた環境は戦場と同じです。
その犠牲になったのが、旭川駐屯の第2師団第2特科連隊の陸曹長(4月1日付で1階級特別昇任:准陸尉)でした。
曹長は大地震発生の第一陣部隊として3月12日旭川を出発。2日間かけ被災地に入り、3日後の早朝から岩手県内で活動を始めました。昼夜を問わず、本来任務である食糧・物品管理、日中は瓦礫の撤去、捜索などに当たっていました。
第一陣となった部隊は、人命救助が優先され緊急性の高い任務が課され、早朝から日没まで、過酷な環境下での活動を強いられました。
曹長は30日、岩手県滝沢村にある施設を借りた前方戦力回復所で休養していた2日目の朝、起床後、左半身の異常を訴え救急車で盛岡市内の病院に搬送されました。
自衛隊による史上最大の作戦は、十万名ですが、後方支援要員・交代要員も含めると二十万名となるのはそう遠くはないでしょう。士気は高く、被災者の方々からも高い賞賛を得ています。
しかし、現実は「限界」を迎えつつあるのです。
その影響は最前線に立つ陸上自衛官に集中しています。被災地入りした当初、1日一食というという日が続き、鍛えぬいた肉体を徐々に蝕み、疲労は極限を迎えているはずです。戦闘食を口にし、避難民には温かい食事と風呂を提供し、膨大な亡くなれた方、被災者と向き合い野営を続けています。
PTSDの症状が出ているとの報告もあります。
警察や消防と違い、遺体を見たり触れる機会がない隊員にとってどれほど大きな負担があるか想像に難くありません。遺体は大変申し訳ありませんが、通常の状態ではありません。津波に飲み込まれ無数の傷があり、傷から細菌が入り繁殖し、腐敗は凄まじいとしか形容できないと聞いています。
こうした症状は、原発に展開する中央特殊武器防護隊、各師団から派遣されている化学防護隊、空中モニタリングする第1ヘリコプター団でも見られるそうです。
強いストレスは、私たちの理解の枠を明らかに超えたものです。恐怖感、嫌悪感など無数のストレス要因と戦っているのです。
私は早期に、派遣部隊を後方に一時移動させ、部隊を再編する必要が急務だと思います。長期の任務に適応したシフト化し、全ての省庁が担当を分担・明確化し、長期的な復興を目指す時期のはずなのです。
「仕分け」を得意顔でやっていた議員センセイ方の多い民主党が、なぜここで仕分けをしようとしないのか。無能とか無策というレベルのものではありません。民主党の仕打ちは、人間としてその本質を疑われる行為です。
亡くなられた曹長ですが、曹長には三人の息子さんがいらっしゃるそうです。お一人は、第1空挺団で福島原発で任務中。ほかの二人の息子さんも、陸上自衛官で東北の被災地に投入されているそうです。
曹長への処遇は伝えられていませんが、救いは急変を伝えられた自衛隊統合任務部隊司令部は、三人のご子息をそれぞれの任務地から呼び集めヘリなどで病院へ送り届けたそうです。私は異例中の異例のこの統合任務部隊司令官と司令部の英断は賞賛されるべきものだと思います。そして、曹長は「栄誉の殉職」であり、立派に国民の負託にこたえた死であるのは明らかです。ここに、二階級の昇任を求めるとともに、現在の作戦終了後、師団による部隊葬を求めます。
PR
- +TRACKBACK URL+