憂い next ver.
新・元自衛官の憂い
ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
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02030637 | [PR] |
01210800 | 東日本大震災から |
1・11・21・31の「1」の付く日は、東日本大震災についてお話するつもりでいます。
被災地出身者であり、被災地が忘れ去られている現状を憂えているだけでなく、東日本大震災から日本は多くのものを学ばなければならないにもかかわらず、名ばかりの「復興」を唱え何の教訓も得ないまま見切り発車しようとしている事実を憂えてのことです。
東日本大震災は、「1000年に一度」とも言われていますが、この震災を後世に伝えるのは我々の当然の義務ですが、ここから学ぶべきことを学ばなければ、我々は同じ失敗を繰り返すことになりかねず、私はそれを憂えて皆さんに認識いただきたいと考えています。
そしてまた、米国・米軍の支援でわかったように、重厚な軍の装備は救命・救援にたいへん役立つことも理解していただきたいのです。
阪神淡路大震災から18年目を迎えたばかりですが、この「18年」という数字に皆さんは何も感じませんか?
20年もしない間に、我々は大きな地震を何度も経験しているのです。つまり、東日本大震災だけが特別ではなく、強いて言えば阪神淡路大震災以降、日本は地殻変動期に入っているのかもしれません。
阪神淡路大震災以降の最大震度6以上を記録した大きな地震は、1997年5月13日鹿児島県西北部地震(最大震度6弱)、98年9月3日岩手県内陸北部地震(最大震度6弱)、2000年10月6日鳥取県西部地震(最大震度6強)、01年3月24日芸予地震(最大震度6弱)、03年5月26日三陸南地震(最大震度6弱)、7月26日宮城県北部地震(最大震度6強)、9月26日十勝沖地震(最大震度6弱)、04年10月23日新潟県中越地震(最大震度7)、12月14日留萌支庁南部地震(最大震度6弱)…とまだまだ記録があります。
こうした事実を意図的ではないにしても、地震予知が可能だと妄信する学者たちが、地震学的根拠ではなく数学的確率論で予知しようとする無理がたたり、現実にそぐわない研究をしている証しではないでしょうか。
私は東日本大震災で、「病院」の重要性を再認識すべきと感じています。
昨今、公立病院は採算割れや、公的事業縮小の傾向から公立病院への風当たりが強くなっています。
市町村選挙で、公立病院建て替え反対などが争点となり、反対派が当選したなどというニュースが耳目に触れますが、確かに「予算上」の問題で建て替えや建設中止は必要ではありますが、災害等を考慮しての判断も必要なのではないかと、東日本大震災は大きな教訓を与えています。
東日本大震災で津波被害を免れた石巻赤十字病院は、地震・津波発生後、ほとんどの医療機関が診療不能状態に陥った石巻地区の医療拠点となりました。
多くのけが人、病人が殺到しスタッフは死と向き合いながら、水と食糧が不足し、感染症が広まり、災害地というだけでなく地域医療の最後の砦となりました。
当時の石巻市は市街地のほとんどが津波の被害を受け、救急車は流されてしまい2台が可動できる状態だったといいます。
自衛隊の救援が本格化した12日昼以降、ヘリや自衛隊の特殊車両が数分おきに被災者を運び込みました。
当時のスタッフは「映画で見た野戦病院みたいだった」と後に感想を述べていますが、これは今後起きるであろう大規模災害への教訓ではないでしょうか。
被災地で活動できる病院があっても、そこを活動拠点とするのか、前進拠点・進出拠点とするのか明確化されるべきではないでしょうか。
こうした拠点を、医療機関だけでなく災害派遣医療チーム、赤十字、自衛隊なども併せて活動ができないかなど検討すべきではないでしょうか。
テントの活用、ヘリポートの確保などから病院の敷地や隣接地も視野に入れ、多方面の協力態勢が可能な状態にすべきではないでしょうか。
記憶の中に悲惨な情景を残しておくのは精神衛生上良くないことだと認識してはいますが、だからといって「なかったこと」にはしてはならないのではないでしょうか。
危機管理は神経質になって物事を眺め、心配性に見られるくらいの対策を講じることです。
女々しいとか、やり過ぎとの非難されるかもしれません。しかし、事が起きてからでは遅いのです。
安全はこの世には存在しないのです。安心は何の根拠もない心の問題なのです。
人間は自然には勝てません。勝てないのであれば、せめて大敗北を喫しないくらいの手立てを講じるべきではないでしょうか。負けて勝つ、これが今、この国に必要なことではないでしょうか。
被災地出身者であり、被災地が忘れ去られている現状を憂えているだけでなく、東日本大震災から日本は多くのものを学ばなければならないにもかかわらず、名ばかりの「復興」を唱え何の教訓も得ないまま見切り発車しようとしている事実を憂えてのことです。
東日本大震災は、「1000年に一度」とも言われていますが、この震災を後世に伝えるのは我々の当然の義務ですが、ここから学ぶべきことを学ばなければ、我々は同じ失敗を繰り返すことになりかねず、私はそれを憂えて皆さんに認識いただきたいと考えています。
そしてまた、米国・米軍の支援でわかったように、重厚な軍の装備は救命・救援にたいへん役立つことも理解していただきたいのです。
阪神淡路大震災から18年目を迎えたばかりですが、この「18年」という数字に皆さんは何も感じませんか?
20年もしない間に、我々は大きな地震を何度も経験しているのです。つまり、東日本大震災だけが特別ではなく、強いて言えば阪神淡路大震災以降、日本は地殻変動期に入っているのかもしれません。
阪神淡路大震災以降の最大震度6以上を記録した大きな地震は、1997年5月13日鹿児島県西北部地震(最大震度6弱)、98年9月3日岩手県内陸北部地震(最大震度6弱)、2000年10月6日鳥取県西部地震(最大震度6強)、01年3月24日芸予地震(最大震度6弱)、03年5月26日三陸南地震(最大震度6弱)、7月26日宮城県北部地震(最大震度6強)、9月26日十勝沖地震(最大震度6弱)、04年10月23日新潟県中越地震(最大震度7)、12月14日留萌支庁南部地震(最大震度6弱)…とまだまだ記録があります。
こうした事実を意図的ではないにしても、地震予知が可能だと妄信する学者たちが、地震学的根拠ではなく数学的確率論で予知しようとする無理がたたり、現実にそぐわない研究をしている証しではないでしょうか。
私は東日本大震災で、「病院」の重要性を再認識すべきと感じています。
昨今、公立病院は採算割れや、公的事業縮小の傾向から公立病院への風当たりが強くなっています。
市町村選挙で、公立病院建て替え反対などが争点となり、反対派が当選したなどというニュースが耳目に触れますが、確かに「予算上」の問題で建て替えや建設中止は必要ではありますが、災害等を考慮しての判断も必要なのではないかと、東日本大震災は大きな教訓を与えています。
東日本大震災で津波被害を免れた石巻赤十字病院は、地震・津波発生後、ほとんどの医療機関が診療不能状態に陥った石巻地区の医療拠点となりました。
多くのけが人、病人が殺到しスタッフは死と向き合いながら、水と食糧が不足し、感染症が広まり、災害地というだけでなく地域医療の最後の砦となりました。
当時の石巻市は市街地のほとんどが津波の被害を受け、救急車は流されてしまい2台が可動できる状態だったといいます。
自衛隊の救援が本格化した12日昼以降、ヘリや自衛隊の特殊車両が数分おきに被災者を運び込みました。
当時のスタッフは「映画で見た野戦病院みたいだった」と後に感想を述べていますが、これは今後起きるであろう大規模災害への教訓ではないでしょうか。
被災地で活動できる病院があっても、そこを活動拠点とするのか、前進拠点・進出拠点とするのか明確化されるべきではないでしょうか。
こうした拠点を、医療機関だけでなく災害派遣医療チーム、赤十字、自衛隊なども併せて活動ができないかなど検討すべきではないでしょうか。
テントの活用、ヘリポートの確保などから病院の敷地や隣接地も視野に入れ、多方面の協力態勢が可能な状態にすべきではないでしょうか。
記憶の中に悲惨な情景を残しておくのは精神衛生上良くないことだと認識してはいますが、だからといって「なかったこと」にはしてはならないのではないでしょうか。
危機管理は神経質になって物事を眺め、心配性に見られるくらいの対策を講じることです。
女々しいとか、やり過ぎとの非難されるかもしれません。しかし、事が起きてからでは遅いのです。
安全はこの世には存在しないのです。安心は何の根拠もない心の問題なのです。
人間は自然には勝てません。勝てないのであれば、せめて大敗北を喫しないくらいの手立てを講じるべきではないでしょうか。負けて勝つ、これが今、この国に必要なことではないでしょうか。
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