憂い next ver.
新・元自衛官の憂い
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02021908 | [PR] |
08210800 | 大西瀧治郎 |
遺書
特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつつ肉彈として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するを誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎
資料によって様々な掲載方法がなされていますが、中には文脈を全く無視したものや、追記されたと思われるものが存在するのは嘆かわしいことです。
これは、署名にあるとおり「特攻の生みの親」とされる大西瀧治郎海軍中将の遺書です。
特別攻撃隊と呼ばれた死の作戦は、個人的に大いに否定するものであり、軍事作戦と呼べるものではありません。
大西中将を調べると、軽々に「特攻の生みの親」と片付けるわけにはいかない人物です。
大西中将は昭和20年8月16日午前2時45分に自刃したとされています。
大西中将は、ポツダム宣言を受諾し天皇の玉音放送を海軍省次官室で涙を流しながら直立不動で聞き、軍令部の部下に解散の挨拶を交わし部屋を出たと伝えられています。
中将は夕刻、以前から交際のあった児玉誉士夫(日本の右翼運動家、稲川会顧問)宅に立ち寄り和平決定となった経緯を語り次官官舎に戻り浴衣に着替え、官舎の近くに自宅のあった矢次一夫宅を訪れました。
矢次一夫は得体の知れない人物です。佐賀県生まれ。
学歴は小学校卒、若くして国策研究会を設立。戦時中は大政翼賛会参与、戦後は岸信介首相の特使として韓国を訪問。日韓協力委員会設立に関与。北朝鮮の金日成とのパイプもあったとされる児玉誉士夫と共に昭和が生んだ怪物とされています。
矢次と酒を酌み交わし、矢次邸を辞したのは日付がかわっていたそうです。
16日早朝、空襲警報が鳴り官舎の使用人が飛び起き、大西中将の部屋から灯りが漏れているのに気付きました。
部屋を確認すると、辺りは血の海で、畳の上にシーツを敷き、その上に血まみれの大西中将が突っ伏していました。
中将はまだ息があり、「生きるようにはしてくれるな」としぼり出すような声で言ったそうです。
駆けつけた児玉には、「貴様がくれた刀は切れぬ」と愚痴を言ったり、「初めて腹を切ったものだから…」と息のある自分を恥じているかのような言動が伝えられています。
息を引き取ったのは昭和20年8月16日午前10時ごろでした。
戦後、大西中将は「特攻隊の生みの親」と指弾され、中将について語ることは禁忌のようになりました。
しかし、中将は「統率の外道」と特攻作戦について語っていたとも伝えられ、謎の多い存在ですが「特攻の生みの親」のレッテルにより、大西中将についてはあまり資料がありません。
大西中将は昭和20年5月19日海軍軍令部次長に着任します。
陸海軍共に作戦を立案するにも実動兵力・武器も無く末期症状の日本であったにもあったにもかかわらず、大西中将は徹底抗戦を訴えます。
政府は鈴木貫太郎が首相となり和平に向けて動き出しており、米内海相もこれに同調する動きを見せていました。海軍省内ではほとんどが和平派で占められ、大西中将は省内で孤立した存在となりました。
本土決戦・徹底抗戦を訴える大西中将でしたが、日米戦の開戦劈頭行われた「真珠湾攻撃」では、山本五十六連合艦隊司令長官は、大西中将(当時:第11航空艦隊参謀長(少将))に作戦立案を依頼し、大西中将は後に作戦成功に浮かれる海軍内で、「山本さんは戦を知らない」と真珠湾奇襲に批判的だったというのです。
調べれば調べるほど謎の多い人物です。
様々な証言があり、大西中将が特攻作戦の生みの親であるかのような印象を持ってしまうのは当然です。
しかし、豊田副武連合艦隊司令長官は特攻=大西説に異論を唱えています。
豊田大将は自伝の中で「大西が特攻攻撃を始めたので、この特攻攻撃の創始者だということになっており。それは大西の隊で始めたのだから、大西がそれをやらかしたことには間違いはないのだが、決して大西が自分一人で発案して、それを全部に強制したのではない。もっと溯ってそんな考えを持っていた者は他にも少なくない」と語っています。
私は特攻については否定しますが、どうして本人が責任を負うの潔しとしていたとはいえ、大西中将に全ての責任を押し付け時間の流れの中に真実を埋没させてしまうことは、日本の将来に禍根を残すことになります。
最後に特攻(対艦船)についてお話しておきます。
理屈では上方から下方に向かうのですから、命中すると思われがちですが、突入速度が超過した場合、ダイブブレーキを持たない戦闘機の場合、突入直前に機体が浮き上がってしまいます。ですから、操縦手は突入角度を浅く取り、速度超過に気を配り突入しなければなりません。
さらに対空砲火が凄まじく、被弾した場合にはフラッター現象(異常振動)により空中分解することも考えられ、技量と並外れた自制心を持たなければ突入しても激突する可能性は低くなっていきます。
賛美・批判することは容易です。
しかし、その本質を知り、当時、何がどのように行われたのか知るのは、後世の我々の義務なのではないでしょうか。
大西中将に対し哀悼の誠を捧げます
特攻隊の英霊に曰す
善く戦ひたり深謝す
最後の勝利を信じつつ肉彈として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するを誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ
諸子は國の寶なり
平時に處し猶ほ克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を盡せよ
海軍中将大西瀧治郎
資料によって様々な掲載方法がなされていますが、中には文脈を全く無視したものや、追記されたと思われるものが存在するのは嘆かわしいことです。
これは、署名にあるとおり「特攻の生みの親」とされる大西瀧治郎海軍中将の遺書です。
特別攻撃隊と呼ばれた死の作戦は、個人的に大いに否定するものであり、軍事作戦と呼べるものではありません。
大西中将を調べると、軽々に「特攻の生みの親」と片付けるわけにはいかない人物です。
大西中将は昭和20年8月16日午前2時45分に自刃したとされています。
大西中将は、ポツダム宣言を受諾し天皇の玉音放送を海軍省次官室で涙を流しながら直立不動で聞き、軍令部の部下に解散の挨拶を交わし部屋を出たと伝えられています。
中将は夕刻、以前から交際のあった児玉誉士夫(日本の右翼運動家、稲川会顧問)宅に立ち寄り和平決定となった経緯を語り次官官舎に戻り浴衣に着替え、官舎の近くに自宅のあった矢次一夫宅を訪れました。
矢次一夫は得体の知れない人物です。佐賀県生まれ。
学歴は小学校卒、若くして国策研究会を設立。戦時中は大政翼賛会参与、戦後は岸信介首相の特使として韓国を訪問。日韓協力委員会設立に関与。北朝鮮の金日成とのパイプもあったとされる児玉誉士夫と共に昭和が生んだ怪物とされています。
矢次と酒を酌み交わし、矢次邸を辞したのは日付がかわっていたそうです。
16日早朝、空襲警報が鳴り官舎の使用人が飛び起き、大西中将の部屋から灯りが漏れているのに気付きました。
部屋を確認すると、辺りは血の海で、畳の上にシーツを敷き、その上に血まみれの大西中将が突っ伏していました。
中将はまだ息があり、「生きるようにはしてくれるな」としぼり出すような声で言ったそうです。
駆けつけた児玉には、「貴様がくれた刀は切れぬ」と愚痴を言ったり、「初めて腹を切ったものだから…」と息のある自分を恥じているかのような言動が伝えられています。
息を引き取ったのは昭和20年8月16日午前10時ごろでした。
戦後、大西中将は「特攻隊の生みの親」と指弾され、中将について語ることは禁忌のようになりました。
しかし、中将は「統率の外道」と特攻作戦について語っていたとも伝えられ、謎の多い存在ですが「特攻の生みの親」のレッテルにより、大西中将についてはあまり資料がありません。
大西中将は昭和20年5月19日海軍軍令部次長に着任します。
陸海軍共に作戦を立案するにも実動兵力・武器も無く末期症状の日本であったにもあったにもかかわらず、大西中将は徹底抗戦を訴えます。
政府は鈴木貫太郎が首相となり和平に向けて動き出しており、米内海相もこれに同調する動きを見せていました。海軍省内ではほとんどが和平派で占められ、大西中将は省内で孤立した存在となりました。
本土決戦・徹底抗戦を訴える大西中将でしたが、日米戦の開戦劈頭行われた「真珠湾攻撃」では、山本五十六連合艦隊司令長官は、大西中将(当時:第11航空艦隊参謀長(少将))に作戦立案を依頼し、大西中将は後に作戦成功に浮かれる海軍内で、「山本さんは戦を知らない」と真珠湾奇襲に批判的だったというのです。
調べれば調べるほど謎の多い人物です。
様々な証言があり、大西中将が特攻作戦の生みの親であるかのような印象を持ってしまうのは当然です。
しかし、豊田副武連合艦隊司令長官は特攻=大西説に異論を唱えています。
豊田大将は自伝の中で「大西が特攻攻撃を始めたので、この特攻攻撃の創始者だということになっており。それは大西の隊で始めたのだから、大西がそれをやらかしたことには間違いはないのだが、決して大西が自分一人で発案して、それを全部に強制したのではない。もっと溯ってそんな考えを持っていた者は他にも少なくない」と語っています。
私は特攻については否定しますが、どうして本人が責任を負うの潔しとしていたとはいえ、大西中将に全ての責任を押し付け時間の流れの中に真実を埋没させてしまうことは、日本の将来に禍根を残すことになります。
最後に特攻(対艦船)についてお話しておきます。
理屈では上方から下方に向かうのですから、命中すると思われがちですが、突入速度が超過した場合、ダイブブレーキを持たない戦闘機の場合、突入直前に機体が浮き上がってしまいます。ですから、操縦手は突入角度を浅く取り、速度超過に気を配り突入しなければなりません。
さらに対空砲火が凄まじく、被弾した場合にはフラッター現象(異常振動)により空中分解することも考えられ、技量と並外れた自制心を持たなければ突入しても激突する可能性は低くなっていきます。
賛美・批判することは容易です。
しかし、その本質を知り、当時、何がどのように行われたのか知るのは、後世の我々の義務なのではないでしょうか。
大西中将に対し哀悼の誠を捧げます
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