憂い next ver.
新・元自衛官の憂い
ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
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02021356 | [PR] |
08131952 | 暴力 |
防衛大学校(防大)で上級生等による暴力行為が明らかになりました。
個人的には防大とはいっさい関係ないので、「何様のつもりなんだ?」とふつふつと怒りが湧いてきます。
暴力だけでなく、暴行でケガをした被害者を裸で腕立て伏せさせ、その写真をLINEで流すという行為にまで及び、当事者のみだけでなく管理監督責任も問われるものです。
暴力を完全に否定するものではありません。
暴力は原則や前提をもって許容するのが私の考えです。
というのは、無条件に全否定する左翼思想家や傾倒者ですが、彼らの根源には暴力を使い自らを正当化する傾向が強くあります。
何事もそうであるように、無条件に無定見に否定することは、その本質を見極めず毛嫌いするのと同じです。
こうした行為は大きな過誤や齟齬を招き、重大な問題を見過ごすことにもつながります。
左翼は国家の権力を暴力とみなし、ヤクザのような暴力集団と全く同義として捉えています。やがては、国家まで否定するというアナキズムに陥ります。
前政権時代、自衛隊を「暴力装置」と発言して批判されましたが、私は自衛隊は「暴力装置」だと認識していますが、それは国家により保証されたものであり、他国からもその存在を認められているものだと考えます。
「平和主義」を唱える左翼は、実際に何をしてきたか考えると、無条件・無定見に暴力を否定することの危険性がわかります。
私のような考え方は、戦争を肯定するものと思われることでしょう。
しかし、戦争を肯定し戦争に導こうとするのは平和主義を唱える左翼思想です。
思想家としては後世に名を遺すであろう毛沢東ですが、政治家としては単なる無能な独裁者ですが、毛沢東こそが暴力を否定し自らの暴力を肯定するという矛盾にはまり込んでいます。
毛沢東は「戦争を絶滅する方法はただ一つである。つまり戦争をもって戦争に反対し、革命戦争をもって反革命戦争に反対するのである」と語っています。
これが、暴力を否定し平和主義を唱える左翼集団の本質なのです。
私は防大の暴力行為について断罪を求めます。関係した学生の事実関係を究明し、それを把握した段階で即座に放校処分とすべきです。
二度と同じ事件が起きないよう、教育の徹底を求めます。
個人的には防大とはいっさい関係ないので、「何様のつもりなんだ?」とふつふつと怒りが湧いてきます。
暴力だけでなく、暴行でケガをした被害者を裸で腕立て伏せさせ、その写真をLINEで流すという行為にまで及び、当事者のみだけでなく管理監督責任も問われるものです。
暴力を完全に否定するものではありません。
暴力は原則や前提をもって許容するのが私の考えです。
というのは、無条件に全否定する左翼思想家や傾倒者ですが、彼らの根源には暴力を使い自らを正当化する傾向が強くあります。
何事もそうであるように、無条件に無定見に否定することは、その本質を見極めず毛嫌いするのと同じです。
こうした行為は大きな過誤や齟齬を招き、重大な問題を見過ごすことにもつながります。
左翼は国家の権力を暴力とみなし、ヤクザのような暴力集団と全く同義として捉えています。やがては、国家まで否定するというアナキズムに陥ります。
前政権時代、自衛隊を「暴力装置」と発言して批判されましたが、私は自衛隊は「暴力装置」だと認識していますが、それは国家により保証されたものであり、他国からもその存在を認められているものだと考えます。
「平和主義」を唱える左翼は、実際に何をしてきたか考えると、無条件・無定見に暴力を否定することの危険性がわかります。
私のような考え方は、戦争を肯定するものと思われることでしょう。
しかし、戦争を肯定し戦争に導こうとするのは平和主義を唱える左翼思想です。
思想家としては後世に名を遺すであろう毛沢東ですが、政治家としては単なる無能な独裁者ですが、毛沢東こそが暴力を否定し自らの暴力を肯定するという矛盾にはまり込んでいます。
毛沢東は「戦争を絶滅する方法はただ一つである。つまり戦争をもって戦争に反対し、革命戦争をもって反革命戦争に反対するのである」と語っています。
これが、暴力を否定し平和主義を唱える左翼集団の本質なのです。
私は防大の暴力行為について断罪を求めます。関係した学生の事実関係を究明し、それを把握した段階で即座に放校処分とすべきです。
二度と同じ事件が起きないよう、教育の徹底を求めます。
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