憂い next ver.
新・元自衛官の憂い
ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
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02061758 | [PR] |
11150800 | 平和とは… |
30年も昔のことになりますが、イギリスとアルゼンチンの間で3ヶ月に及んだ「領土戦争」がありました。
日本では「フォークランド紛争」と呼称されていますが、近代化された西側同士の戦争であり、この戦争は後の軍事技術に多くの影響を及ぼすことになりました。
私には若かりし頃の戦争ですが、イギリスが距離的に圧倒的に不利な状況で、どこまでこの戦争にかかわるか論争していたのを記憶しています。
イギリスから約10,000km離れた海外領土の領土紛争に、「陽の落ちることがない」とまで言われた大英帝国が、英国病といわれる状態の国が、どこまで本気でアルゼンチンと対抗するかと注目された戦争でした。
戦争が起きるかどうか。
その判断に差し挟まれるのは、「戦争は起きない」「戦争は起きて欲しくない」という願望が多く含まれています。
フォークランド戦争当時、イギリスとアルゼンチンの全面衝突を予見する世界のメディアでさえ多くはありませんでした。
それは、かつての第二次世界大戦でも、そうした希望的観測は多くありました。
こうした見方は、日本は重症で「平和ボケ」とも言われるものです。
これは、大変に危険な思い込みです。
相手の意図を読み違え、ただの脅しと思っていると大きなしっぺ返しを食らわされることになります。
健全であれば、「戦争が起こらない努力」をすべきで、こうした根本的な思考から様々な戦略を立てなければなりません。
平和な世界を築くには、希望や願望、祈りは不要であり、冷静な分析眼が必要となります。
私は憲法改正を支持しており、これまでにも何度かここで取り上げてきました。
特に「自衛隊・自衛官」という視点で見ると、この国の憲法の歪さに気付かされます。
「自衛隊は軍隊ではない」とは、これまでの政府の見解です。
日本国憲法第66条第2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」とあります。
文民とは「軍人ではない者」を意味しますが、軍隊の存在しない国に、敢えて文民だけが政治に携わるという断りをするのは異様な文言ではないでしょうか。
自衛隊によく使われる「文民統制」も同じです。
この文民統制は、本来は「シビリアンコントロール」を和訳したもので、主権者である「国民」が選挙により選出された国民の代表により、軍事に対し、最終的な決定権を有するという意味合いのものです。
軍隊が存在し、軍人が存在するのであれば文民条項も納得できますが、どちらもこの国には存在しないのです。
こうした点だけでも、いかにこの国の憲法が歪んだものであるか、おわかりいただけると思います。
一方では、憲法に違反する集団として解体・縮小を唱えられ、大規模な災害が起きると、そうした意見は姿を消し、自衛隊を鼓舞するかのような意見が集中する。
考えて欲しいのは、国を守るということはご都合主義では達成できるものではないということです。
国を守る装備・資機材・人員が、大規模な災害でも役立つことが実証されましたし、そこで働く隊員たちは食うや食わずで被災地・被災者のためにと八面六臂の活躍をしたではありませんか。
自衛隊に懐疑的なみなさん、東日本大震災で活動した隊員たちは、「国のため」と危険を顧みず活動していましたか?
希望や願望で将来や未来を語るのはやめましょう。平和を祈っていては、この国の将来、私たちの未来は安心・安全なものでなくなるのです。
平和を祈っていても、平和は訪れることは絶対にありません。
日本では「フォークランド紛争」と呼称されていますが、近代化された西側同士の戦争であり、この戦争は後の軍事技術に多くの影響を及ぼすことになりました。
私には若かりし頃の戦争ですが、イギリスが距離的に圧倒的に不利な状況で、どこまでこの戦争にかかわるか論争していたのを記憶しています。
イギリスから約10,000km離れた海外領土の領土紛争に、「陽の落ちることがない」とまで言われた大英帝国が、英国病といわれる状態の国が、どこまで本気でアルゼンチンと対抗するかと注目された戦争でした。
戦争が起きるかどうか。
その判断に差し挟まれるのは、「戦争は起きない」「戦争は起きて欲しくない」という願望が多く含まれています。
フォークランド戦争当時、イギリスとアルゼンチンの全面衝突を予見する世界のメディアでさえ多くはありませんでした。
それは、かつての第二次世界大戦でも、そうした希望的観測は多くありました。
こうした見方は、日本は重症で「平和ボケ」とも言われるものです。
これは、大変に危険な思い込みです。
相手の意図を読み違え、ただの脅しと思っていると大きなしっぺ返しを食らわされることになります。
健全であれば、「戦争が起こらない努力」をすべきで、こうした根本的な思考から様々な戦略を立てなければなりません。
平和な世界を築くには、希望や願望、祈りは不要であり、冷静な分析眼が必要となります。
私は憲法改正を支持しており、これまでにも何度かここで取り上げてきました。
特に「自衛隊・自衛官」という視点で見ると、この国の憲法の歪さに気付かされます。
「自衛隊は軍隊ではない」とは、これまでの政府の見解です。
日本国憲法第66条第2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」とあります。
文民とは「軍人ではない者」を意味しますが、軍隊の存在しない国に、敢えて文民だけが政治に携わるという断りをするのは異様な文言ではないでしょうか。
自衛隊によく使われる「文民統制」も同じです。
この文民統制は、本来は「シビリアンコントロール」を和訳したもので、主権者である「国民」が選挙により選出された国民の代表により、軍事に対し、最終的な決定権を有するという意味合いのものです。
軍隊が存在し、軍人が存在するのであれば文民条項も納得できますが、どちらもこの国には存在しないのです。
こうした点だけでも、いかにこの国の憲法が歪んだものであるか、おわかりいただけると思います。
一方では、憲法に違反する集団として解体・縮小を唱えられ、大規模な災害が起きると、そうした意見は姿を消し、自衛隊を鼓舞するかのような意見が集中する。
考えて欲しいのは、国を守るということはご都合主義では達成できるものではないということです。
国を守る装備・資機材・人員が、大規模な災害でも役立つことが実証されましたし、そこで働く隊員たちは食うや食わずで被災地・被災者のためにと八面六臂の活躍をしたではありませんか。
自衛隊に懐疑的なみなさん、東日本大震災で活動した隊員たちは、「国のため」と危険を顧みず活動していましたか?
希望や願望で将来や未来を語るのはやめましょう。平和を祈っていては、この国の将来、私たちの未来は安心・安全なものでなくなるのです。
平和を祈っていても、平和は訪れることは絶対にありません。
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