憂い next ver.
新・元自衛官の憂い
ようこそ、時事&軍事雑学BLOGへ!
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02021846 | [PR] |
09030800 | 伝えられない真実こそ価値がある |
9月1日は「防災の日」でした。
様々な訓練が各地で行われたようですが、沖縄に配備されたオスプレイが訓練に参加するとテレビで大きく取り上げていましたが、それを言うなら二流に成り下がったとはいえ経済大国が、自国の災害に他国の手を借りなければならないほど脆弱であることを嘆くべきです。
9月1日で関東大震災を顧みるのはいいと思いますが、関東大震災に固執して仮に同じ首都圏下で巨大地震が発生した場合、関東大震災と同じ被害が出るという発想はいかがなものでしょうか。
関東大震災については「火災」だけが大きく取り上げられ、関東大震災の本当の被害状況は全く伝えられていないような気がします。
関東大震災と呼ばれる地震は、東日本大震災に似た本震と余震が短時間で3回の大きな地震が発生しています。
大正12年9月1日11:58 小田原直下から岩盤の崩壊が始まり、北アメリカプレートとフィリピン海プレートがずれ始め、破壊は40~50秒かけ放射状に広がり川崎市、館山市、房総半島に広がり長さ130km、幅70kmの岩盤が平均2.1mずれたとされています。
地震はは小田原~秦野間の岩盤崩壊、その約10~15秒後の三浦半島直下の破壊と2つの揺れが起きていますが、東京から距離があるため、2つの揺れが連続した揺れと感じ、「長い揺れ」という当時の証言があります。東日本大震災に類似した地震であったのです。
さらに東京湾北部を震源とする余震が12:01、山梨県東部を震源とする余震が12:03に起きており、揺れは収まりかけたと思ったら次々と波状的に遅い、東京では5分以上の揺れを感じていたことでしょう。
この地震で揺れの発生から数分で太平洋沿岸地域・伊豆諸島を津波が襲来しました。熱海では12m、房総半島でも9mの高さが記録されています。
東日本大震災での津波は12mの津波は、仙台空港周辺、大熊町、楢葉町などで観測されています。東日本大震災で房総半島を襲った津波の高さは旭市飯岡で7.6mですから、関東大震災規模の地震で発生する津波はそれ以上の高さになることになります。
津波だけを取ってみても、歴史的な巨大地震の東日本大震災以上の津波が関東地方の太平洋沿岸を襲うことになり、首都圏の火災だけの問題ではないことがわかります。
防災を訴える日として9月1日の存在は重要ではありますが、真実が完全には伝えられていないという懸念があるのです。
首都圏での火災の怖さを訴えることに否定はしませんが、震災当時、東京の市部ではポンプ自動車38台、オートバイ・ポンプ、手引きガソリンポンプ各1台、ホースだけを積んだ水管車25台、人員824名、予備消防員1,402名だけしかありませんでした。
地震によりインフラは壊滅状態で、消火に必要な水が無かったのです。
水が確保できても長時間使用による故障、ガソリンの不足などが相次ぎ、そうした裏事情を無視して火災だけをことさら強調して伝えるのは果たして同じ規模の地震が首都圏を襲ったとして教訓となるのか私は疑問に思います。
大規模な災害は、私たち人間の想像をはるかに超えた被害をもたらします。それに立ち向かうには、かつての災害で被害を受けながらも、不撓不屈の世親で立ち向かい、常識を超えた策で事に臨んだ人たちの記録(歴史)を知ることが、後世の私たちの義務ではないでしょうか。
災害をどの程度まで被害を局限することができるか、その知恵は歴史にあるのではないでしょうか。
災害時、どれだけ最善と思われる策を弄しても、その判断が結果として最良のものとはなりません。
震災直後は人心を安定させるために美談が多く語られます。救援・救護を担当した諸氏の名誉のためにも、失敗については触れないという傾向になるのは当然ですが、「その時」何が起き、何をしようとしたのか、そしてそれがどのような結果になったのか、失敗を単純に責めるのではなく後世の教訓とするためにも、それらのことは明白にされるべきものであり、伝えられなければならないものだと私は考えています。
様々な訓練が各地で行われたようですが、沖縄に配備されたオスプレイが訓練に参加するとテレビで大きく取り上げていましたが、それを言うなら二流に成り下がったとはいえ経済大国が、自国の災害に他国の手を借りなければならないほど脆弱であることを嘆くべきです。
9月1日で関東大震災を顧みるのはいいと思いますが、関東大震災に固執して仮に同じ首都圏下で巨大地震が発生した場合、関東大震災と同じ被害が出るという発想はいかがなものでしょうか。
関東大震災については「火災」だけが大きく取り上げられ、関東大震災の本当の被害状況は全く伝えられていないような気がします。
関東大震災と呼ばれる地震は、東日本大震災に似た本震と余震が短時間で3回の大きな地震が発生しています。
大正12年9月1日11:58 小田原直下から岩盤の崩壊が始まり、北アメリカプレートとフィリピン海プレートがずれ始め、破壊は40~50秒かけ放射状に広がり川崎市、館山市、房総半島に広がり長さ130km、幅70kmの岩盤が平均2.1mずれたとされています。
地震はは小田原~秦野間の岩盤崩壊、その約10~15秒後の三浦半島直下の破壊と2つの揺れが起きていますが、東京から距離があるため、2つの揺れが連続した揺れと感じ、「長い揺れ」という当時の証言があります。東日本大震災に類似した地震であったのです。
さらに東京湾北部を震源とする余震が12:01、山梨県東部を震源とする余震が12:03に起きており、揺れは収まりかけたと思ったら次々と波状的に遅い、東京では5分以上の揺れを感じていたことでしょう。
この地震で揺れの発生から数分で太平洋沿岸地域・伊豆諸島を津波が襲来しました。熱海では12m、房総半島でも9mの高さが記録されています。
東日本大震災での津波は12mの津波は、仙台空港周辺、大熊町、楢葉町などで観測されています。東日本大震災で房総半島を襲った津波の高さは旭市飯岡で7.6mですから、関東大震災規模の地震で発生する津波はそれ以上の高さになることになります。
津波だけを取ってみても、歴史的な巨大地震の東日本大震災以上の津波が関東地方の太平洋沿岸を襲うことになり、首都圏の火災だけの問題ではないことがわかります。
防災を訴える日として9月1日の存在は重要ではありますが、真実が完全には伝えられていないという懸念があるのです。
首都圏での火災の怖さを訴えることに否定はしませんが、震災当時、東京の市部ではポンプ自動車38台、オートバイ・ポンプ、手引きガソリンポンプ各1台、ホースだけを積んだ水管車25台、人員824名、予備消防員1,402名だけしかありませんでした。
地震によりインフラは壊滅状態で、消火に必要な水が無かったのです。
水が確保できても長時間使用による故障、ガソリンの不足などが相次ぎ、そうした裏事情を無視して火災だけをことさら強調して伝えるのは果たして同じ規模の地震が首都圏を襲ったとして教訓となるのか私は疑問に思います。
大規模な災害は、私たち人間の想像をはるかに超えた被害をもたらします。それに立ち向かうには、かつての災害で被害を受けながらも、不撓不屈の世親で立ち向かい、常識を超えた策で事に臨んだ人たちの記録(歴史)を知ることが、後世の私たちの義務ではないでしょうか。
災害をどの程度まで被害を局限することができるか、その知恵は歴史にあるのではないでしょうか。
災害時、どれだけ最善と思われる策を弄しても、その判断が結果として最良のものとはなりません。
震災直後は人心を安定させるために美談が多く語られます。救援・救護を担当した諸氏の名誉のためにも、失敗については触れないという傾向になるのは当然ですが、「その時」何が起き、何をしようとしたのか、そしてそれがどのような結果になったのか、失敗を単純に責めるのではなく後世の教訓とするためにも、それらのことは明白にされるべきものであり、伝えられなければならないものだと私は考えています。
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